森とともに歩んできた下川町

 

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下川町の面積は東京23区とほぼ同じくらいで、そのうち9割が森林です。町の森林のうち、約85%が国有林で、町有林が約8%、私有林が約7%となっています。2015年現在は3,500人程の人口ですが、かつては農林業のほかに鉱山のまちとしても賑わっていた頃がありました。昭和35年をピークに15,000人程の人口がありましたが、その後休山が相次ぎ、林業林産業の衰退もあって人口は減り、他の山村地域と同様、過疎化が問題視される町となりました。このままではいけないと考えた下川町は、独自の取り組みで森林林業を軸に町づくりを進めてきた経緯があります。現在は環境未来都市にも認定され、転出入者の差はプラスに転じました。森林の町下川の取り組みをご紹介します。

 

全国にその名が知られる程の木材産地


明治時代、北海道の開拓が始まり、ここ下川町へも本州からの入植者がありました。人が入り、生活の地として拓かれるのと同時に木は伐り出され、山奥からは川を利用した流送で木材が運ばれました。やがて下川の隣にある名寄まで鉄道が通り、林業はさらに本格化しました。

1923年(大正12年)、関東大震災が起きた際、その復興材として北海道からは多くの木材が供給され、下川からも大量の材が出されてその名が知られることとなりました。その後も林業は栄え、太平洋戦争後の復興材需要もあり、町は、本州の著名な造材師(山から木を伐り出す職人)や、出稼ぎの人と馬で賑わいました。この頃から下川は道内でも林業が栄えた地として知られていたことになります。

そんな中、下川町では町の取り組みとして積極的な森づくりを行いました。全国的にも国有林から林地の払い下げを求める流れがあり、下川では北海道内で一番多い面積を買い受けたほどでした。しかし、文字通り町をあげて森に賭けた矢先、昭和29年の台風15号、通称洞爺丸台風が山を襲いました。町の森林の1/3の蓄積量が風倒木となってしまったと言います。

 

伐って植える林業へ


当時、北海道の林業は、自然に生えた木の中から出したい木だけを伐り出す天然林施業が主流でした。ところが、この洞爺丸台風による多大な被害と、度重なる復興材供給で確実に資源が減少していたことから、天然林に頼った林業だけでは立ち行かなくなり、これを機に、伐って植え育てる人工林のサイクルに移らざるを得なくなりました。下川町でも、ちょうどこの頃から「伐って植える循環型林業経営」に着手しました。その後40年間、毎年40から50haずつ木を植え続けたと言います。昭和30年代は、外国からの木材輸入により国内の林業界が大きな影響を受けた時期にあたります。国内の林業林産業にとって厳しい時代でした。そんな中でも、下川町は森に賭けて木を植えました。

 

再びきた試練と発想の転換


こうして台風の影響から立ち直ろうとしていたところへ、昭和56年、またしても自然災害が山を襲います。10月下旬、台風並みの低気圧と例年より高い気温で、湿雪と強風の影響を受けた山は、またしても甚大な被害を受けました。たくさんの木が倒れ、町はその処理に追われることとなりました。せっかく植えた木が倒れ、そのまま捨てるわけにもいかない。なんとかその風倒木を利用しようと考えた結果、下川町はそれまで町内にはなかった炭づくりに取り組むことを決めました。ゼロからの開発、そして急を要する事業化でした。

 

ゼロエミッションの考え


木炭の事業化は、下川町森林組合によって試行錯誤の末にようやく形になりました。しかし、出来上がった炭はそれまでの一般的な炭とは樹種も違えば特性も異なります。カラマツでできた炭は火持ちが悪いと当初は評判がよくありませんでした。しかし、少し視点を変えて売り方を「アウトドアレジャー用の炭」として、バーベキューに必要な道具とセットで売り出したところ、短所だった火持ちの悪さは逆に火残りしないという長所に変わり、受け入れられました。

その後森林組合は、細い木もそのまま円柱状に削って土木資材として加工し、削った木屑は粉炭にして融雪剤などに商品化、炭を作る際に採れる木酢液と炭焼きの煙を使って、天然の防腐加工となる燻煙材を作るなど、工場内で出る副産物を次々と新たな製品に活かすゼロエミッションの考えを実践していきました。

 

最後に枝葉もエッセンシャルオイルに


このゼロエミッション工場の中に、最後に作られたのがトドマツエッセンシャルオイルの工房です。山から得られる資源は無駄にならない、町の人たちにそんな実感があったからこそ、次は枝葉を活用しよう、という気運が生まれたのかもしれません。現在フプの森が精油の製造を続けている工房は、当時作られたまま下川町森林組合の敷地内にあります。明治から続いてきた下川町の林業の歴史は、私たちの作る精油にも引き継がれています。